あの日の記事を、いま読んで。   

第1回:1946年(昭和21) 創刊号(その1)

[middle_title]「創刊之詞」に込められた思い[/middle_title]
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月刊『つり人』は、第2次世界大戦で日本が敗戦を迎えたわずか1年後に創刊しました。B5判72頁の薄い作りで、カラーはわずか4P。紙質もお世辞にもよいものとはいえません。写真だって巻頭にモノクロ写真がこれまた4Pあるだけです。終戦間もない米軍占領下の混乱期であることを考えれば、釣り雑誌を立ち上げること自体大変だったのかもしれません。しかしそんな世相とは裏腹に、「創刊之詞」と題した挨拶文には、次のような言葉が記されています。
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[blog_citation1]釣は、人類の原始時代から、吾々と深い因縁を持つているらしい。子供は、すべて釣を好む。吾等の遠い祖先のやうな無心の姿で、子供は釣っている。 釣らう。無心の姿で、釣するために釣らうではないか。 戦争中は、時局に合わせるために、心身の練成であるとか、体位の向上であるとか、健全娯楽であるとか、いろいろの理屈をつけて竿をかつぎだした。そして、世間に憚ること一通りや二通りではなかった。 釣りは、元来そんなものではない。人間の生活の、ありのままのものだ。釣することは、なにかの為になるなどと考えるのは、もうそれは釣りではない。静かに、釣らう。虚心の姿で竿を握らう。(以下、略)[/blog_citation1] 創刊の時期を併せて読めば、戦争の重圧と解放の喜びがまさに表裏一体となった「詞」ともいえるでしょう。 終戦から間もなく、釣り道具も充分に揃っていなかったと思うのですが(実際にそれを裏付ける記事も登場しています)、素直な心持ちで釣りができること自体、とてつもなく大きな喜びだったのです。 そんな時代に作られた釣りの雑誌が面白くないわけがありません。 そして「創刊之詞」は、こう続くのです。 [blog_citation1]吾等同好の者数人相謀って、このたび釣魚雑誌「つり人」を創刊することに決した。吾等はもとより、釣りの職業人ではないのである。街の素人である。釣場についても、釣法についても、幼い知識しか持たぬ。従って読者諸賢に、釣法の指導も、釣場の案内も満足にはできまいと思ふ。しかし、なにかの相談相手にだけはなれようと思う。 そんな気持ちで、雑誌を製作したい。そして、読者と共に楽しく遊び楽しく釣らうと考えるのである。(以下、略)[/blog_citation1] 奥付には今の雑誌でいえば編集・営業スタッフにあたると思われる人名が、「つり人社同人」としてクレジットされています。 さあ、それでは私の大先達、当時の同人たちが熱意を込めて作った創刊号から面白そうな記事を紐解いていきましょう。 [blog_line] [middle_title]『鼎談 狩野川の鮎—名人が語る友釣りの奥義—』[/middle_title]
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伊豆・修善寺の「水月館」というところで、野田重衛・中島伍作・佐藤垢石の3名が鼎談を行なった記事です。題字は手描き、時代ですね(笑)。編集主幹を務める佐藤垢石が、狩野川の友釣り名人・中島さんと、修善寺の野田さんにいろいろお話をうかがっています。これが大変に興味深い内容なのです。 垢石は7月の刊行に向けて5月16日の狩野川解禁日を取材し、その夜に鼎談を行ないました。話題は不調に終わった解禁日のようすから始まり、その中で、もう放流の話が出てくるのには驚きです。昭和21年ですよ、しかも「どこのものですか」と垢石が養殖アユの産地を聞くと、野田さんが「浜名湖の産です。最初は琵琶湖産であったらしいですが、小田和湾付近のものです」と具体的なことを仰っている。さらに「天然と放流は追いが違いませんか」という質問には「同じようです。しかし放流鮎は育ちが悪いやうです」と答えられています。 また、「狩野川の特質」という中見出しの後はこう続きます。 [blog_citation1]「変な話ですが、この川の釣り人は一番上手です。私は下手ですけれども富士川へでもでかければ、富士川の職漁者と同じくらい釣りますが、ここではさうは釣れない……つまりはたが(原文ママ)上手です」(野田)[/blog_citation1] [blog_citation1]「いるアユだから誰にでも釣れそうなものなのに、この川では下手な人にはかからず、上手な人にかかるのはどうしたわけでせうか。まさか鮎が人みしりをするわけでもないでせうに……何かあるのではないですか」(垢石)[/blog_citation1] 狩野川の人たちが友釣りが上手だというのはこの頃からあって、垢石はその秘密を探りながら、友釣りのルーツにも迫ろうとします。 [blog_citation1]「友釣は、どこから始まったのでせうか。美濃の長良川、飛田(飛騨)の宮川、上州の利根川で聞いても狩野川の漁師に聞いたといっています」(垢石)[/blog_citation1] 要するにこれは、狩野川の漁師さんが全国の川へ、簡単にいうと出稼ぎに行っていたわけです。狩野川が「近代友釣り発祥の地」とされていることは、多くの友釣りマンの方がご存じのとおりです。その理由は上記したように、狩野川の漁師さんが出かけた先の川で技術を伝えていったことも一因でしょう。 しかし一方で、友釣り自体は狩野川で始まったことではなく、全国各地の河川で自然発生的に誕生したものだと私は思います。ではなぜ狩野川なのか? 実はその理由もこの鼎談で明らかにされています。それは「近代」という言葉がキーワードであり、謎解きの「鍵」は、逆バリです。 [blog_line] [middle_title]コロンブスの卵? 蝶々バリ[/middle_title] 明治期の後半頃、中島さんのさらに先達たちが「蝶々バリ」なるものを使い始めます。名前のとおり、2本のハリの軸を合わせて、翅を広げた蝶のような形にしたものですね。これにアユがよく掛かるということで、狩野川で蝶々バリが流行します。 「この蝶々バリを作るには、普通のハリでは駄目で“つむぎのえりしめ”を灯火で焼いて曲げる」と中島さんは鼎談でいっています。すごい発想力です。 しかし、軽くて底を掻きにくく流れに乗りやすい従来のチラシに対して、重い蝶々バリは底を掻いてしまう。そこで登場したのが逆バリです。今では誰もが当たり前のようにオトリに打っている逆バリを、使い始めて広めたのが狩野川の漁師さんたちであったということが記されています。狩野川が近代友釣り発祥の地といわれる所以が、ここに出てくるのです。面白いでしょう! 逆バリの使い方も具体的に記されています。 [blog_citation1]「私のやり方は小さいオトリの場合にはつめる。大きい時はその三倍にものばす。しかし多くのばしても尾端から五分位。小さい場合はハリの結び目と尾端とすれすれにして使います」(中島)[/blog_citation1] なかなかのウンチクです。ほかにもどこに魚がいたときはどうするとか、アユはどこからオトリを追いかけてくるかなど、もうこの頃にこれだけ研究している人がたくさんいらしたことを垢石は見抜いていた。それを全国の友釣りファンに伝えるために、狩野川で鼎談を行ない記事にまとめあげたのです。 面白い話はまだまだあります。 次回はヘラブナ釣りの記事を紹介しましょう。和の淡水ゲームフィッシング最先端をいく現代のヘラブナ釣りファンには、これがまた衝撃的な内容です(笑)。 どうぞ楽しみにお待ちください。 [blog_line] [blog_box] 1946年(昭和21)の主な出来事 (この年生まれの方は今年満67歳) 1月 天皇の人間宣言 東京で紙芝居復活。弁士が東京で2000人、観客の子ども1日50万人 たばこピース新発売(1人1箱制限) 2月 東京山手線に、日本人立入禁止白線入り進駐軍専用電車登場 3月 日刊スポーツ発刊、初のスポーツ紙 4月 新選挙法による第22回総選挙 幣原内閣総辞職. 5月 メーデー11年ぶりに復活 極東国際軍事裁判(東京裁判)始まる 皇居で米よこせデモ 第一次吉田茂内閣成立 広島・長崎に白血病患者出始める 6月 4年ぶり早慶戦野球復活 8月 闇市の全国一斉取り締まり 9月 住友財閥令嬢誘拐事件 11月 日本国憲法公布 12月 樺太引き揚げ第一船が函館に入港 シベリア引き揚げ第一船が舞鶴に入港 [/blog_box]

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